道路交通法の改正と歴史 その6

思っているよりも大きい日本

昭和も後半に入ります。 

ここからが日本の経済的なピークになります。

 戦前、日本のGDPは、世界で6位、7位くらいでした。

 「日本は小さい」と思っている方も多いと思いますが、それは戦前の植民地まで入れてのこと。第二次大戦後、欧米各国の植民地は独立し、 単体の国となってからは、けっこう大きいのです。

 現在ヨーロッパの国で、人口が多いのはドイツの8300万人(世界では15番目)。

ついでフランス6300万人(21番目)、イギリス6200万人(22番目)と、先進国で日本の約1億2700万人(世界11番目)というのは、かなり多いのです。

ちなみに10位までは、中国13億6000万人、インド12億5000万人、アメリカ3億5000万人、インドネシア2億4000万人、ブラジル1億9500万人、パキスタン1億7400万人、ナイジェリア1億5800万人、バングラディシュ1億4900万人、ロシア1億4300万人、メキシコ1億2800万人と続きます。

面積でも、日本国の排他的経済水域まで入れると、世界第6位となります。

 戦争で負けたとはいえ、もともと先進国で社会インフラも整っていますから、戦後日本の人口が増えれば世界2位のGDPになるのはまったく不思議ではありませんでした。

 しかしながら日本は「日本人は勤勉だから」「世界の誰より働いたからできた奇跡の復興」と、本来とは違うストーリーで戦後の高度成長期を理解してしまいます。

 戦後の人口ボーナスで増で得た地位とお金でしたが、これからは急激に人口は減っていきます。

 現在(2020年)、日本の一人当たりGDPは、ノルウェー、デンマーク、アイスランドなどの北欧の約半分、アメリカの2/3しかありません(アメリカは9位、日本26位)。  

バブル崩壊後、特に2000年以降で、世界の経済地図はすっかり変わってしまいました。。。

(※これを書いたのは2020年に入ってすぐでしたが、ようやく世間の認識が変わってきました)

 話がずいぶん逸れました。 とにかく、高度成長期は人も車も増えます。 当然交通事故も続出。交通事故での死者多数で、これは戦争状態のようだ、ということで「交通戦争」などという言葉も生まれています。  

一方、世間は空前のスーパーカーブーム。

 一台数千万円というフェラーリ、ランボルギーニなどの車が人気を得て、大人も子供もスーパーカーブームとなりました。

 1975年(昭和50年)

法律では1975年(昭和50年)、自動二輪車に限定制度が定められ、中型自動二輪限定及び小型自動二輪限定免許が設けられます。

 当時を知らない人でも知っているであろう「限定解除」という言葉を生む元となった制度です。

 当時はバイクメーカーの自主規制で、排気量の上限が750cc。最高排気量のナナハンでの暴走行為が非常に多かった事から設けられました。

 限定解除の自動二輪免許は今のように教習所での教習制度ではなく、試験は試験場での一発のみ。 そのため合格率は1%と、非常に低くおさえられていました。

 自動二輪車乗員(51cc以上)のヘルメット着用義務違反に反則点数1点(政令指定道路区間のみ)付加されます。

 原付車にも着用の努力義務化。

 1978年(昭和53年)

 1978年(昭和53年)、自動二輪車のヘルメット着用が一般道路、高速道路を問わずに義務化されます。

 この頃の暴走族は当たり前にノーヘルでした。

 暴走族対策として、共同危険行為の禁止が規定されます。

 暴走族だけでなく、ルーレット族やドリフト族も対象となります。

 関東近辺の走行スポット、「イニシャルD」に登場する山の多くが夜間の走行禁止や道路に凹凸を作られ、高速での走行ができないようになっていきます。

 歩道の通行が認められる自転車を普通自転車として定義し、歩道通行の方法を規定します。

 1980年代

順調に拡大する日本経済。 日本車はアメリカ市場で販売を伸ばし、1980年(昭和55年)には、日本の自動車生産台数が世界ナンバー1となります。

 国内では「ラグジュアリーカー」と言われる車が登場します。

 1980年の日産レパード、1981年トヨタ・ソアラ、同年のいすゞピアッツァなどです。

 その結果、アメリカとの間に貿易摩擦を引き起こし、アメリカでは日本車をハンマーで壊すパフォーマンスにまで至りました。

 モータリゼーションの進展で、衰退したのが鉄道です。 国は赤字体質の国鉄を分割して民営化します。JRの誕生です。

 1980年代は高速道路網が拡大していきます。

 1982年(昭和57年)11月、山梨県甲府南インター~山梨県勝沼インター間が開通し、 中央自動車道が全線開通しました。

 1983年(昭和58年)3月、中国自動車道が全線開通。

 1985年(昭和60年)10月 – 関越自動車道が全線開通。

 1987年(昭和62年)9月 – 東北自動車道が全線開通。

 1988年(昭和63年)4月 – 瀬戸大橋が開通。道路と鉄道の併用橋。本州と四国が橋で結ばれました。

 同年 北陸自動車道が全線開通。

道路行政は以下の通り。

 1985年(昭和60年)、シートベルトの着用が高速道路で義務化される。

 1986年(昭和61年)、一般道での運転席、助手席でのシートベルト着用が義務化します。

 1988年(昭和63年)、原付もヘルメット着用の義務化。からすべてのバイクにヘルメット着用の義務となります。

同年3車線以上の道路における原動機付自転車の二段階右折が義務化される。

1990年代 

1991年(平成3年)、普通自動車免許にオートマチック限定免許が定められる。

 1992年(平成4年)、「中速車」の区分が廃止され、自動車の一般道路等の法定最高速度が一律60キロとなる。 1994年(平成6年)、5年以上無事故・無違反の優良運転者に限り、免許更新期間が5年に延長され、免許証の有効期限記載欄が金色の通称ゴールド免許となる。

 1996年(平成8年)、自動二輪車の限定区分を廃止し、大型自動二輪車と普通自動二輪車の区分が新設される。大型自動二輪車の教習が指定自動車教習所で解禁される。

 普通自動二輪と大型自動二輪に改められ、大型も教習所で取れるようになりました。

 これは大型バイクしか売っていないハーレーなどの海外メーカーから「これは非関税障壁だ」と圧力をかけられて緩和してきた背景があります。

今、トランプさんが軽自動車に同じことを言ってますね。

 そしてそれまで中型免許所有者が大型バイクに乗っても(眼鏡の掛け忘れと同じ)条件違反で2点の違反点と6000円の罰金で済んでいたのが、問答無用で無免許運転扱いになりました。

 時期は前後しますが、92年にバブルが崩壊します。 ですが、数字的には96年がGDPのピークです。 

よくバブルの光景として出てくる、ジュリアナ東京のお立ち台最盛期も、厳密にいえばバブル崩壊後の1996年頃の光景なのです。

 これ以降、日本は長い長い下り坂になっていきます。


バブル時代の象徴 トヨタ・ソアラ