「道」の話 ①~道路の考察

道はどうやってできたのか

常日ごろ歩いたり、何も考えずに車で走ったりしている道ですが、その道はいつからできたのでしょうか?

最近、区画整理されてできた道?

もしかすると、もっともっと古く、ちょんまげを結った侍や飛脚が走っていた道。さらに古く、石斧をかついだ先祖たちが動物を追って歩いていた道かもしれません。

はじめは獣道

道のはじめは獣道です。

野生動物は、なるべく障害物の少ない場所を歩いていきます。同じ場所を何度も通れば、草木は折れ、土は踏み固められます。

やがてそこを人間も通るようになります。

動物が通った形跡があれば、待っていればそこを通る獲物が手に入ります。

水や食料を得るために人間や動物が踏み固め、自然発生的に道が作られました。

 

農耕が始まる前、人間は木の実や獲物を追い、移動しながら生活していました。

同じ場所で木の実や獲物が獲れるわけではありません。「この季節はここで木の実が獲れる」「この季節はここで獲物に出くわしやすい」と、ある程度の根拠地を持ちながらも、いろいろな場所を移動していました。

日本で一定の場所に定住するようになったのは、縄文時代とされています。

北海道、北東北に残る縄文遺跡群が有名です。

気候が暖かくなったため周囲に動植物が増え、人間は大集落を形成できるようになりました。縄文時代は1万年以上続きました。

一般的には、農耕=定住 という図式ですが、縄文時代のように、

「農耕が始まる前からある程度の定住が行われた地域」

「ある程度の農耕が始まりながらも定住をしなかった地域」

もあり、数千年のタイムラグはあると考えられます。

専業と分業

人間が定住化すると、いろいろな変化が起きます。

まず人口が増えます。

生活拠点を移動しながらの出産、育児は大変なことでした。定住により、乳幼児死亡率は大幅に改善したことでしょう。

また病気になっても、そこの場所で回復することができます。

「銃・鉄・病原菌」などの著作で有名な文化人類学のジャレド・ダイヤモンドの本で、現在も狩猟採集をしながら生活する集団を調査した記述があります。

その集団では、病気になった仲間がいても移動の時期が来たら、わずかな食料だけを残し置いて行ってしまったそうです。

そこには仲間を捨てていく悲壮感的な感情は見受けられず、我々とは違う感情を持っていたことが描かれていました。

回復して移動した集団に追いつけばまた仲間に入るようですが、この時置いて行かれた仲間が再び集団に戻ることは無かったようです。

 

定住して人口が増えれば、より複雑な作業が行えるようになります。

土器の発明がそれです。

土器が作られれば、煮炊きができるようになります。

動植物を煮炊きするようになり、今まで食べられなかったものが飛躍的に食べられるようになりました。

食料が増え、人口はさらに増加します。

土を掘り出し、こね、乾燥させ、焼くことで土器ができます。が、ここには多くの手間がかかります。

獲物を捕りに行く人、土器を作る人と、専業と分業が生まれます。

 

集団のデメリット

集団が大きくなると、デメリットも生じます。

例えば、集団の中で争いが起きても、簡単に集団を出ていくことができました。

でも集団が大きくなり定住するようになると、そう簡単にも行きません。

争いを解決する方法、ルールが求められます。

また人から人へ、さまざまな疫病や寄生虫が伝播しやすくなります。

農業が行われるようになると、個人で行うよりも集団で行うほうが効率が良くなります。集団で行動できるように暦が作られます。

また、行動を促すリーダーが必要になります。

 

さらに社会的身分が生まれる

一定程度の人口が増えると、個人のキャラクターを超えた社会的な身分やルールが必要になります。

個人の人間が仲間を認識できるのは150人が限界、という研究があります。未だ狩猟採集を主とする約200の部族を調べても、平均人数は152人です。アメリカのアーミッシュも、共同体の人数は150人を上限とし、それ以上になると共同体を分ける、という決まりがあります。

個人による分業と専業のように、集団同士でも分業や専業が行われるようになります。

海の近くの集団なら海の幸を、山の近くの集団なら山の幸を、といった具合に、集団によって得意不得意なものができてきます。

交易が行われるようになります。

交易が行われるようになって道は太くなり、更に交易が行われるようになります。

 

こうやって、農業と定住、専業と分業による文明の発達、交易による道路交通網の発達が一進一退しながら、人間の社会構成は複雑になっていきました。